音楽における「パクリ」と「引用」の境界線 【第2回】

「パクリ」か「引用」かの話の続きです。
今回は「意図的なパクり」=「音楽的なルーツを示すこと」と、それを踏まえてオリジナリティとは何なのか?ということを考えていきます。

オザキって、バイク以外に曲もパクってたの?

高校時代、オレのカリスマは尾崎豊だった。
以下、敬愛の念をこめて「オザキ」と表記。

初めてオザキの音楽に触れ虜になったのは、まさに15歳のとき。クラスメートに借りた『17歳の地図』がきっかけだった。
その後、CDはもとよりオザキが書いた本や文章(月刊カドカワの連載など)はすべて取り寄せた。また、毎月本屋の店頭で、すべての音楽雑誌で目をサラのようにしてオザキ情報を探した。

オザキ信者になった自分として、当時から納得のいかないことが一つあった。

「オザキ、なんでスプリングステーンをパクるんだよ」と。

曲によってはアレンジまで(Born to run→17歳の地図)寄せてるし、周りの大人(レコード会社)も含めて何をやってるの?と当時の自分にはわけがわからなかった。あとはファッションや使ってるギター(初期のライブでよく使っていたテレキャスター)まで寄せてるじゃないか?!

パクるのは悪?

「パクるのは悪」「パクるとオリジナリティがなくなる」といった言説がある。今ならこれらは間違いだと言い切れるが、自分としてはある一時期まで持っていた感覚だ。なので、これを言う人の気持ちはよくわかる。自分としてもDTM で曲を作り始めた当初は、努めて何にも似ていない曲を作ろうとしていた。

同じパクるのでも、法律的にNGなパクりと、法律問題をクリアしたパクりは分けて考えるべきだろう。また、その法律の話をクリアした上で、心情面でよいと思うか悪いと思うかは、実は別次元の話だ(この話はまた次回以降)。

パクる=音楽の系譜に連なるという宣言?

オザキ信者のころから時が過ぎ、いつしか渋谷系にどっぷりつかるようになり、フリッパーズギターというバンドを知ることになる。パステルズに代表されるギターポップのフォーマットを音楽性のベースにしつつ(パクりつつ)、「Goodbye my pastles budge」と歌う構造にハテナと思いつつも、「そういった高度なオマージュの仕方もあるのか」と無理やり納得はしてみたものの、どうも腑に落ちていないところはあった。

ここでの気づきは、彼らがあえてパクり、そのパクり元すらも開示するという手法をとっているということ。その手法を煮詰めて、彼らはオリジナル3枚目のアルバムで、過去の音楽遺産からのサンプリングのみで構築したアルバムをつくりあげ解散した。

おそらくは、このバンドでやるべきことをやり尽くしたということなのだろう。ちなみに権利の関係がクリアできていないのか、いまのところサブスクでは聞くことはできない。

だんだん歳をとるにつれ、この2つの例(オザキとフリッパーズ)の例で「パクる=音楽の系譜に連なるという宣言」なのだということがわかってきた。

ちなみにここ数年のポップミュージックの流行りとしても、あえて引用元を開示するといった手法がある。英語圏ではreferential popと呼ばれており、今後もこれは広がっていく予感はある。これはリスナーの「なんか懐かしい」という感覚に引っ掛けるためとSNSでバズらせるためのフックとしての機能もあるので、これまで書いてきた話とは若干違うかもしれない。「音楽の系譜に連なる」ほど大げさではなく、もう少し節操なく「好きなものを自分の作品に取り込む」みたいな。

余談だが、自分が直近で気づいた話を一つ。そこまで好きでもないのに、なぜか繰り返し聞いてしまうblood orangeのアルバム。いくらなんでも聞き覚えありすぎだろと思って調べたところ、「mind loaded」という曲で、エリオット・スミスからのメロディと歌詞をそのまま借用し、歌い直している。

こういった音楽を聞きながらスマホアプリのGeniusで歌詞を見ていると、えらい細かく「ここからここは権利者は誰」といった表記が歌詞の上に薄い字で記されている。これらについては、おそらく作曲者が引用元にきっちり使用料を払い、権利関係がクリアになっているものなのかと思う。

パクリ否定論者も、パクリ無しには曲は作れない

音楽制作においてはそもそもの話、どこからどこまでがパクりなのか非常にあいまいなところだ。

音楽理論、コード進行、リズムパターン、ジャンルごとの楽器の音色などなど、すでに集合知といえるものがあるかと思う。DAWのスキルだってそうだ。

多くのEDM系のアーティストがやるテクニックとしてDUCKがある(ベースとキックが重なる箇所は、ベースの音量を下げるテクニック。これによって独特の音のうねりが生まれる)。これだって最初にやった人がいて、あとに続く人はこの「音の鳴り」をパクッている。

このコードにはこのメロディーというのも、無限にありそうだが限りはある。

パクリ反対派も音楽をつくる時にはこれらのコード進行やらリズムパターンやらは、セオリーに則ったものを使うだろう。この結果として、まるっきり自分ではオリジナルのトラックとメロディをつくったつもりでいても、それは99.9%、すでに何かしらのアーティストの劣化コピーの組み合わせになっている。

「コード進行には著作権はないので、パクりではありません」という言い訳をするかもしれない。ただ、その時点でその人にとってのオリジナルって何なの?という話になってくるだろう。

「すでに音楽は鳴りつくしている」という言葉を誰が言ったかは知らないが、ある意味でこれは正しいのだろう。新たにオリジナルを作ったとしても、それはいくつもの過去の名作をツギハギしたものでしかないと言うことだ。

オリジナリティ=引用元の多さ?!

では、パクりの対局にある概念である「オリジナリティ」とは何のか。

いまの時代の音楽制作におけるオリジナリティとは、曲中にいくつ参照元(パクり)があるか?ということと、新規で自身で作ったところとの組み合わせの妙、面白さでしかないだろうと思う。

おそらくは、曲制作におけるオリジナルとは何か?という問いに対する答えはこれであろう。

また、たぶんそこにしか、作品の強度は生まれない。
(ちなみに上記数行分の主旨は音楽評論家であるタナソウ氏の発言の受け売り:パクリである)

つまりは、現代におけるオリジナルはパクりから逃れられない流れにあるというなんとも言えない二律背反を含んだ状況にあるともいえる。

LCD SOUNDSYSTEMのジェームズ・マーフィーが初めてデヴィッド・ボウイに会ったときの逸話がある。「わたしの2NDアルバムは、すべてあなたの作品のパクリで成り立っています」と言ったジェームズ・マーフィーに対してのデヴィッドボウイの言葉。

「盗人から盗むことはできないよ」と。

ちょっと話としてデキ過ぎているので、本当の話がどうかは不明であるが、今日書いたことの一部を裏付ける逸話ではあるかと思う。後輩からの「あなたの曲をパクりました」という告白に、「いやオレも上の世代の曲からパクってるから」と。

まとめ

冒頭のオザキの話に戻ると、つまりは「音楽の系譜」に連なることを目的にスプリングスティーンのアーティストとしてのフォーマットをパクったということなのだろう。

それを踏まえると、当時は「10代の代弁者」とか「反抗」というキャッチとともに語れること多かった彼であったが、周りの大人は「スプリングスティーンのような、より普遍的な歌を歌うソングライター」への道筋を付けていたということだろう。

こう考えると、「パクリ=単なる悪」とも言い切れないと思うのだが、みなさんはどう思いますか?

次回は、引用、サンプリング、オマージュ、リスペクト、リファレンス、概念のパクり、再演としてのパクり、曲の質感の引用といったさまざなパクりを言葉も含め整理しつつ、法律的にOKなパクリとNGなパクリについて書いていく。

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